LOGIN彼は立ち上がり、言われた場所から白い箱を持ってきた。蓋を開け、消毒液と絆創膏をテーブルへ置く。それだけだった。
「……何で、何も言わないの」「血は見えてる。だから救急箱を取りに行った」「そうじゃなくて。前なら、もう手を掴んでたでしょう」 自分でも何を言いたいのか分からなくなり、水道へ向かう。傷を洗う間、景都は後ろから何も言わない。手首を掴まれ、先に流水へ連れていかれた記憶が戻る。痛むかと聞かれたのは、必要な処置が全部終わったあとだった。景都は救急箱を持ってきただけで、私のそばへは来なかった。私は傷を洗い終え、テーブルへ戻って消毒液を開ける。片手では小さな包装が剥がしにくい。景都は手伝おうとせず、箱の中の期限を確認している。「それ、まだ使える?」「消毒液は大丈夫。絆創膏は粘着が弱いかもしれないから、別のを出す」「……そこまで分かってるなら、新しいの取って」 景都が袋を一枚出す。「開けて」 切り口から包装を破り景都は一口食べ、塩の瓶を見たが、そのまま茶碗へ戻った。 私はもう一度、今度はさっきより多めに振った。景都は自分の茶碗を引き寄せる。「景都は足さないの?」「一回食べてから」 景都は塩の瓶を取った。二回。私より少ない。瓶をテーブルの真ん中へ戻し、もう一口食べる。私も食べる。同じ鍋からよそった粥なのに、途中から味が違った。 私は自分の茶碗を傾けて底の米をすくった。景都は私の塩加減を見ても口を出さず、自分の方だけをもう一度味見した。 景都の茶碗は、私のものより色が薄い。「本当にそれでいいの?」 彼は一口食べ、「別でいいだろ」と言った。昔は塩を足さなかったはずだと尋ねると、一人の時に試したらしい。「今さら?」「離婚してから」 短い答えの向こうに、私の知らない朝がいくつもあった。 私のいない台所で、景都が塩の瓶を取った朝を思い浮かべる。塩パンもブラックコーヒーもそうだった。知っていたはずの人に、私の知らない味が増えている。 景都の茶碗が先に空く。彼は鍋を洗おうと立ち上がり、私がまだ食べているのを見て座り直した。「音がするから、食べ終わってからでいい」 もう起きている、と返しても、彼は時計を見ずに待った。 六時半まで、もう数分しかない。電車は動いているし、昨夜濡れたジャケットも乾いている。それでも景都は時計を見直さなかった。私は最後の一口を急がずに食べる。 食べ終えると、景都が二つの茶碗を重ねた。私の分だけテーブルに残す。昨夜貼った絆創膏へ目をやって、流しへ持っていくのをやめたらしい。「絆創膏を貼ってても、茶碗くらい持てるよ」「知ってるよ。俺が立ったついでだから」 景都は自分の茶碗と鍋だけを洗う。蛇口の音の向こうで雨がほとんど聞こえなくなった。「次に作るなら、米粒をもう少し残して。煮すぎないで」 景都が水を止める。「次も作っていいのか」 言い直すこともできた。今日の粥の話だけだと言うことも。「次は、粥じゃないのがいい。食べたいもの、先に聞いて」 景都が玄関で靴を履い
扉を開けて、ソファでは狭いからこちらへ来るかと聞くこともできる。想像しただけで、また喉が渇いた。一時半を過ぎ、リビングの明かりが消える。扉の下から入っていた細い光もなくなった。それから何分経ったのか分からない。喉が渇き、ベッドを抜け出す。扉を開けると、部屋は暗かった。窓の外の街灯だけで、ソファの形が見える。景都は横向きになり、短い布団から足を出していた。 起こさないよう台所へ向かう。「水、飲みに来た?」 暗闇から声がした。「起きてたの?」「今、扉の音で起きた。何かいるか?」 景都が身体を起こしかける。「寝てて。自分で取る」「分かった」 すぐまた横になる。冷蔵庫から水を出すと、棚に夕食の残りのご飯が一膳分あった。明日の朝に食べようと思い、そのまま扉を閉める。グラスへ注いだ水を、立ったまま半分飲む。ソファからは景都の呼吸が聞こえない。眠っているのか確かめたくなり、暗さに目を慣らした。「朝、出る時……」 言いかけると、景都が目を開けた。「起こした方がいいのか?」 先回りされたことに腹が立つより、言えなかった自分の方が苦しかった。「……まだ分からない。やっぱりいい」「朝、出る時」の続きは、起こして、と言いたかったのだと思う。けれど口にする前に、急に恥ずかしくなった。水を飲み終え、空のグラスを流しへ置いた。 ソファの前を通る時、景都はもう目を閉じていた。眠ったふりかもしれない。私は名前を呼ばず寝室へ戻った。 米の匂いで目が覚めた。枕元の時計は六時十二分。外では雨が細く残り、部屋の中から鍋の蓋が鳴る音がした。台所へ行くと、景都が昨夜のご飯を小鍋で煮ていた。シャツには皺があり、袖を二度折っている。「断りなく台所使ったの?」 景都は木べらを止めた。昨夜のご飯が一膳分残っていたので、起こす前に作れると思ったらしい。「私が朝に食べようと思って残したの」 鍋の蓋から落ちた雫が、火の上で小さく鳴った。「……それなら、先に聞けばよかった」 鍋
「明日は六時半には出る。いったん家へ戻って着替えたい」「日曜なのに、そんなに早く?」「このシャツのまま一日過ごすのは、ちょっと落ち着かない」 この部屋に彼の服はない。さっきクローゼットを開けなかったのは、貸せる服がなかったからだけじゃない。景都の服が一枚もないことを、見たくなかったのかもしれない。スマートフォンの充電を確認し、景都はソファへ腰を下ろす。私も寝室へ行けばいいのに、テレビの消えた画面をしばらく見ていた。 寝室へ向かう前、照明をどうするかだけ聞いた。景都は私が寝てから消すつもりらしい。「自分のタイミングで消して」「そうする」 実務の確認はそれで終わったのに、私は扉へ手を掛けたまま動けなかった。 寝室の扉へ手をかける。閉めれば、元夫が壁一枚向こうで眠る。結婚していた頃は同じベッドに入っても、景都がいつ眠ったか知らない夜が多かった。今はソファの布が擦れるだけで気になる。扉を半分閉じたところで、振り返った。 洗面所へ戻ると、未開封だった歯ブラシの包装だけがゴミ箱にある。景都の財布、鍵、時計、充電器。朝になれば全部持って帰る物ばかりなのに、見慣れた部屋の輪郭が少し変わっていた。置いていく物はない。それでも、今夜ここにいた痕跡までは消さなくていいと思った。「景都」「どうした」 景都がソファから顔を上げた。呼んだ時には、続きがあると思っていた。泊まってくれてよかった。明日の朝、黙っていなくならないで。どれも口にすると、今夜へ意味を足しすぎる。「……何でもない。呼んだだけ」 景都は問い直さなかった。「明日、何時くらいに起きる?」「七時くらい。たぶん」 ソファの布が、景都の座り直す音を小さく立てた。「なら、起こさないように出る」「鍵は内側から閉めればいいから」「分かった」 実務の話だけを終え、私は扉を閉めた。ベッドへ入っても眠れなかった。エアコンの音に混じって、ソファの布が一度鳴る。景都が寝返りを打っただけだと思う。時計を見ると、まだ零時四十分だった。スマートフォンを開く。普段なら、帰宅した
困る。困らない。どちらもすぐには選べなかった。景都は返事を待ち、予約画面を進めない。私の部屋には寝具が一組しかない。それでも、彼が座っているソファなら、人一人が横になれる。「ソファでいいなら……泊まってもいいよ」 景都はホテルの予約画面を閉じる前に、一度こちらを見た。「本当に、泊まっていいのか?」 夫婦だった頃なら聞かなかった質問だった。「ソファだけ。寝室には入らないで」「分かった。寝室には入らないよ」 条件を増やして安心させようとはせず、予約ボタンから指を離した。 景都はソファの長さを見下ろした。私は、そこへ本当に寝るつもりなのかと聞く。「泊まっていいと言ったのは君だろ。嫌なら、今からでもホテルへ行く」 嫌ではない。ただ、彼の足が確実にはみ出す。その言い方を探していると、景都が先に口元を緩めた。「さっきから、君も嫌じゃないことしか言わないな」 景都はホテルの画面を閉じた。押入れの上段から薄い掛け布団を出す。来客用に買ったまま、一度しか使っていない。シーツの折り目が残り、柔軟剤の匂いもほとんどしなかった。景都が受け取ろうとする。「私が敷くよ。来客用の向き、分かりにくいから」「布団の向きくらい分かるよ」「私の家では、私が分かる方にさせて」 布団の端を引く方向がぶつかり、二人とも一度手を離した。結局、私が片側、景都が反対側を持ってソファへ掛ける。一人で寝るには少し短い。景都が横になれば、足首が肘掛けから出る。「足を少し曲げれば入る」 景都が実際に腰をずらして横幅を測り始めたので、私は布団の端を引いた。「今、試しに寝なくていいから」 寝られなければ私が気にする、と彼は真顔で言う。ホテルのベッドまで長さを確認するのかと尋ねると、写真の比率と寸法は見るらしい。 失敗したくない、という理由まで、いかにも景都だった。 本当に見る人だった。 掛け布団を置くと、肘掛けから景都の足首が出るのが目に見えた。「狭い?」 彼は一度ソファを押して確かめ、「寝られる
雨が弱くなるのを待つうち、話は家具へ移った。景都が座っているソファは、離婚後に買ったものだ。前の家にあった革張りより小さく、肘掛けも低い。片側の脚には、組み立てた時につけた傷がある。景都は指で触れ、木目に沿って一度なぞった。「この傷、最初からあった?」 私が組み立てる時に金具を落としたのだと話すと、景都は脚の付け根まで確認した。「部品だけなら交換できたはずだけどな」 傷を消す方法から考えるところも変わらない。「そうやって、すぐ元どおりにしようとする」 景都は水色のマグへ言ったのと同じだと気づいたらしく、傷から手を離した。 景都はソファの幅を目で測り、「これ、一人で運んだのか」と聞いた。 配送は玄関までで、組み立てに三時間かかった。背板を逆につけて一度やり直したことまで話すと、彼は業者を頼めば傷もつかなかったと言う。「でも、自分でできたからいいの。傷も、私がつけたって分かるし」 景都はまだ納得していない顔で、傷から指を離した。 景都は呆れた顔をした。棚の背板を一枚逆につけ、やり直したこと。途中で灯が来たのに、説明書を読まず役に立たなかったこと。そんな話をすると、景都は珍しく何度も質問した。彼の部屋では、壁際へ寄せた椅子をまだそのままにしているという。水色のマグも使っている。古いソファの革だけが傷み、張り替えるか迷っているらしい。 話の途中で茶を淹れ直した。二杯目を飲む頃には、雨が止むのを待っていたのか、話の続きを待っていたのか分からなくなっていた。 茶を淹れ直しながら、古いソファを買い替えないのかと聞いた。「まだ座れるよ」 欠けたマグと同じ答えだった。家具は捨てにくい、と景都は言い、そこで言葉を切る。 私は湯気の向こうから顔を覗いた。「大きいから?」 景都はしばらく黙った。「買った時のことまで捨てるみたいで、まだ嫌だ」 言った本人が、答えに戸惑った顔をした。私は何も足さず、空いた弁当箱を重ねた。前の家のソファは景都が選び、色だけ私が決めた。店で何度も座り比べたのに、暮らし始めてから二人で並んだ時間は少ない。今夜は、私が一人で組み立てた小さなソファに
洗面所から一枚持ってきて渡す。景都は髪ではなく、まず鞄の水滴を拭いた。「自分より鞄を先に拭くの、そこは変わらないんだね」「中に資料がある。濡らしたら君の試作品まで困る」「分かったから、今度は自分。シャツまで色変わってるよ」 タオルを奪い返すように取り、肩へ押しつけた。シャツまで濡れている。濡れた布が肩から胸へ貼りつき、結婚していた頃に何度も見たはずの身体の線が浮いた。視線を置く場所に困ってクローゼットを開きかけ、手が止まる。夫婦だった頃は、私の部屋にも景都の服があった。急な宿泊用ではなく、同じ家に住む人のシャツと部屋着が普通に並んでいた。今のクローゼットには、私の服しかない。大きめのTシャツなら貸せるかもしれない。彼がシャツを脱ぎ、それを着るところまで想像してしまい、扉へ掛けた指を離した。初めて見る身体ではない。そのことの方が、今は近すぎた。 洗面所の棚の一段には、畳んだタオルと洗剤の詰め替えが並んでいた。結婚していた頃、そこに景都の替えのシャツを入れていたことを、詰め替え袋を取り出してから思い出す。空いた場所は、とっくに別のもので埋まっていた。「クローゼット、開けかけてたけど。何かある?」「……何でもない。あなたに貸せる服はないって思っただけ。乾くまで、そのタオル使って」 タオルだけ渡す。景都はジャケットを椅子の背に掛け、窓の外を見る。帰るとも、ここにいるとも言わない。浴室乾燥にかければ早いが、シャツまで脱がせることになる。私はハンガーの位置を暖房の風が当たる方へずらした。景都は袖をもう一度拭き、濡れた腕時計だけ外してテーブルへ置く。見慣れた時計が、自分の部屋にあると別の物に見えた。 私は試作品を箱へ戻した。さっき貼ってもらった絆創膏が、布の端へ何度か引っかかる。そのたび景都が見たが、手は出さなかった。夕食は近所の店から頼んだ。配達員が来た時には、雨音で呼出音が聞こえないほどになっていた。二人で床へ座り、低いテーブルで弁当を食べる。景都のシャツは少し乾いたが、ジャケットの肩はまだ重い。 景都は床へ座ることに慣れておらず、何度か脚を組み直した。ソファを勧めると、「君だけ床になる」と断る。「別にいいのに







